JALの利用状況
一五〇〜二一〇〇ヘクタールの大規模なもので、大泉、小平、国立の順で売り出されたが、最も力を注ぐことになったのが国立であるいることも、通りに一層の雰囲気を与えている。
加えて、余裕のある歩行者路を利用して、祭りや市を開く場でもある。
というわけで、この道路が市民にとって単なる交通路としての機能以上のものをもっていることは疑い得ない。
このようなアメニティ豊かな道路は、残念ながらわが国の、特に郊外都市では一般的とはいえない存在である。
国立ではどのようにしてこの道路がつくられたのであろうか、そしてそれは都市の中でどのような役割を果たしているのであろうか。
当時、国立は現在の甲州街道沿いに集落があり、北多摩郡谷保村と称していた。
土地利用上は集落、田圃、山林、畑の四つに分かれ、現在の中央線に近い一帯は村有林を主体とする山林で、薪や堆肥の供給源であったうえ、屠畜や火葬の場でもあったという。
Tyが、鉄道駅を新設し、東京商科大学をはじめとする学校を誘致し、一大学園都市をつくるという計画を携えて村を訪れたのは一九二四年の夏頃だった。
Tyの強引な買収は地元に種々の摩擦をもたらしたが、結局二六〇ヘクタールの土地をまとめ、早速造成にかかった。
国立大学町の骨格は、中心を南北に貫く一橋大通り(現大学通り)と、格子状の区画街路網を斜めによぎる富士見通りと朝日通り(現旭通り)の三本の通りである。
一九二六年にはTyが寄贈した国立駅が完成した。
省線電車は当時国分寺まで来ていたが、そこから更に西へ行く甲武線の国分寺・立川間に、両駅の頭文字をとって国立駅をつくった。
さて、当時の一橋通りは幅二四間(四三メートル)あり、写真を見ると、中央に車道、両側に植栽帯と歩道がある。
つまり、開発時に現在とほぼ同じ構造の道路がすでにできていたのである。
加えて二本の放射道路は幅六間(二メートル)、区画街路は幅三間(五・四メートル)で格子を組み、道路率は二五%に達していた。
こうした、比較的ゆったりと道路空間をとった設計の背景には、関東大震災で多くの人が焼死したため、焼け止まりとしての役割が道路に求められたという事情があると思われるが、それにしても四三メートルのメインストリートは当時としては全く破格だった。
JALに関する情報を徹底比較しました。
ANAの安定性は十分です。
